44歳で適応障害、無職となった竹久夢藤です。止まない雨はないとよく言いますが、今までいろいろあり乗り越えてきました。
ビズリーチのハイクラス転職で単身赴任、パワハラくらいで自分が適応障害になるなんて…
と病んでいますが、自身のカウンセリングの一環で始めたこのブログ。
今日は私の一番の親友が亡くなったときの話しを書いていこうと思います。
私は転向が多く、幼馴染も居ませんでした。その親友とは中学校が一緒だったのですが部活もクラスも全く違い友達でもありませんでした。
高校も同じ工業高校へ進学したのですが科が違うため2年生までほとんど会うことはありませんでした。
電車通学でちょっと会うくらい。
そんな親友と仲良くなったのは私がバイクで警察にお世話になってからでした。
高校に警察が迎えに来て…でも、私はその時逮捕はされなくて学校に無断でバイクの免許を取ったということで謹慎だけで済みました。
父親が自殺しているということで更生の道をと色々先生が動いてくれたみたいです。この話はまた後日。
そんな私をバンドでもやってみようと誘ってくれたのが親友でした。
毎日毎日友達の家でカラオケしているような感じ。
当時はやっていたのが「THE YELLOW MONKEY、BOØWY、THE BLUE HEARTS」のコピーで毎日毎日音合わせをやっていました。
そんなこんなで親友となった彼とは趣味が合い、ヒップホップやレゲエも同じ時期にはまり二人でクラブや野外イベントも一緒に。
私の部屋で親友が酔っ払って立っしょんしても許せるくらいの中でした。
私がターンテーブル買ったときには我が家でDJパーティーだと酒を買い込んで近所迷惑なパーティーを行ったり、二人で曲作ってみたり。
思い出しただけですごく幸せな気持ちに。そんな唯一無二の親友が亡くなったのは父親が自殺したのと同等くらいショックでした。
この話しをしていると思い出すのが二人で作った曲。当時はMDが流行っていてMDに曲が入っているんですが肝心のMDプレーヤーがないので聞く機会が…
この無職の間にMDプレーヤー探してみようかな。
私が先に結婚したのですが、新婚旅行のお土産に海外の空気を詰めてきたと渡した空気を詰めた缶。
嬉しそうに吸ってくれたけど、あれは私のおならだったとか結局ネタ晴らししないまま亡くなってしまいました。
と、話のタネは尽きず本題より逸れましたが、そんな親友が亡くなってしまったのです。
私みたいな出張族で、大阪で数か月住んでいたのですが、親友にもようやく彼女ができて一年付き合い自分の誕生日に両親の顔合わせを計画していました。
2011年2月14日、早朝に珍しく親友の彼女から電話がかかってきたのです。
「○○○と2日前から連絡が取れない」
という話しでした。親友は携帯の電池切れや持っていくのを忘れるタイプでいつものことでは?と思ったのですが、両親の顔合わせ日。
嫌な予感は的中してしまったのです。
長くなってしまったので次に詳細を書きます。
m(__)m
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