カウンセリング代わりに始めたこのブログ。
色々書いてきて自分の闇は深かったと感じている44歳適応障害無職の竹久夢藤です。
先日は親友が亡くなったことについて書きました。
1番の親友を2011年に亡くし、他にもいた親友も…
それに加え仕事が忙しくコロナ禍で友人と合う機会も減って孤独に感じるようになった私。
20代のときは毎晩友達と飲みに行っていた私が家飲みで引きこもっているのも適応障害になった原因の人つだと思いました。
なぜこんなに孤独に感じるのか…今日は私の生い立ちや引っ越しが多く幼馴染が居ない件について書いていこうと思います。
私が生まれたのは徳島県鳴門市という関西方面から来ると四国で一番はじめに入る街で生まれました。
鳴門の渦潮や米津玄師が紅白歌合戦で使った大塚国際美術館、なると金時などが有名です。
そんな海に近い場所で産声を上げた私です。が、海の記憶はほんの少ししか有りません。
(その私を取り上げた方は婦長となって別れた彼女の看護婦さんの先生とわかった話はまた後日)
と、いうのも4歳で限界集落に転向していったからです。
私の思い出が2番目に多いのがこの限界集落暮らし。
家は五右衛門風呂でポットン便所、かまどや囲炉裏がありました。
限界集落暮らしについてもまた後日に書きます。
住んでいるところは近所まで30分、私の学年は3人という学校でスーパーが1週間に1回マイクロバスで売りに来るというすごいところでした。
学校へは歩いて1時間かけバス停へ行きそこから40分かけて学校へ…
行きはまだ下りでいいのですが、帰りは山道を1人でひたすら歩く…
孤独な帰り道だったと記憶しています。
食べ物もあまりなく、自分たちで打ったそばやそば米汁…そんな生活も楽しかった。
学校で遊んだあとすぐに帰らないと(1時間40分プラスバスの待ち時間)暗くなるので山で1人遊びが多かったと記憶しています。
だから学校では友達と遊びますが、幼馴染という感じでは…
そんなところに小学校3年生まで住んでいました。小学校4年生のとき街に引っ越ししたのです。
街…街と言っても限界集落から車で1時間半位の場所で、スーパーや病院まで車で20分くらいの場所でした。
良かったのが小学校までは歩いて5分というところ。しかも帰り道に駄菓子屋が!
今まで一週間に一回買い物できたのが昔ながら駄菓子屋が近所にあったのです。
歩いて5分の学校に近所の駄菓子屋。私はみるみる太っていきました。
甘いものは太るのが早いですね…
しかし、転校に慣れた?というか友達の作り方は上手な方だったので友達もたくさん増えこのまま中学校まで上がりました。
私の住んでいた地域はヤンキー?が多かったです。上下関係も厳しかったのですが、
小学校のときに中学生と喧嘩になったり、中1で3年生に呼び出されたりと、色々なことが有りました。
そこでの仲間達とは高校途中まで本当に仲良く家族みたいな感じで付き合って居ました。
それこそ、貧乏家族だった私ですが、自分の家でいるのより友達の家で暮らしているような…家にも帰らず友人宅をプラプラ…
本当にいろんな方にご迷惑をかけながらここまで大きくなったなと…
感謝の気持ちでいっぱいです。
44歳適応障害無職ニート妻子持ち。こんなところで終わるわけにはいかないですね。
長くなったので続きは次回に。ここまでは友達多そうなのですが、高校で…
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